2010年3月2日

読書「賭ける魂」

さっき姉の日記を読んで初めて知ったこと。血がつながっているにも関わらず、姉はギャンブルに全く興味がないそうだ。無意識のうちに、自分のギャンブル好きに理由を求めていたのかもしれないけれど、亡くなった祖父(父方母方共に)が花札好きだったり麻雀好きだったりしたことを伝え聞くと、ホッとしたものだ。血は水よりも濃し、だなぁ、とか思ったり。でもそうでは無かったのか。そういえば、今となってはパチンコが大好きな兄を、初めてパチンコ屋に連れて行ったのは俺だった。
誰が言いはじめたのか知らないけれど、「人間の運の総量は産まれたときに決まっていて、それを使い果たしたときが死期」みたいな考え方があるように思う。小学校の入学にあたり試験に加えてクジ引きがあり(ある種特殊な学校だったので)、それをくぐりぬけたことで自分の運を使い果たしたのではないか、などと考えたこともあった。高校、大学とことごとく受験に失敗し、さらに入社試験に失敗するのが怖くて、就職活動を放棄したころのことだろうか。受験の失敗は、運ではなくて実力の問題なのに。
この本では、宗教人類学者が自らのギャンブル経験をもとに、必勝法のたぐいではないが、それよりもはるかにためなる考え方を披露してくれる。おそらく自分が何十年かかってもたどり着けないだろう考え方を、たかだか720円で得ることができるのが読書の素晴らしさ。
今の日本では、ギャンブルが嫌われている。賭博行為が法律で禁止されているから仕方ないのかもしれないが、例えば、ディズニーランドで一日遊んで1万円使うのは善、一日かけて予想した競馬に1万円賭けるのは悪、というような認識があるように感じる。ディズニーランドで一日遊んでも、1万円が10万円になることは万にひとつもないのに!こつこつ働いてお金を貯蓄するのが善行、という幼いころから刷り込まれた意識が不景気の元凶なのだとしたら、同じくギャンブル=社会悪、という意識も改めるべきだろう。少なくともカジノ合法化は、日本が全力で取り組むべき課題だ。
ギャンブルによって得られる重要なほとんどのものは、勝つ喜び(お金)ではなく、負ける経験だったりする。ギャンブルで物事の不確実さを痛いほど知っている人間が、元本保証の和牛商法や、怪しげなマルチ商法に、こつこつ数十年働いて貯めた老後のための数百万を注ぎ込むような愚行をはたらくとは思えない。ま、そもそもギャンブルで痛い目にあっていたら、そんな貯金はないだろうが。
今の日本に足りないのは、ギャンブルを人生の歓びのひとつとして楽しめるような国民性だと思う。この本にもあるように「毎日100人が自殺するような国」は、いくら勤勉でも、いくら金を儲けても、世界からは同情されこそすれ、尊敬などされないだろう。受験に失敗したからおしまい、仕事でミスしたからおしまい、嫁に逃げられたからおしまい。そんなことぐらいの失敗で、やり直しのきかない世の中にしないために、もっとギャンブルを楽しもう。ギャンブルをやれば、ほとんどが“おしまい”の連続だということに気づくだろう。それでもギャンブラーは賭け続ける。「すべては途中経過にすぎない」から。

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